2001年10月、モンゴル赤十字社、社会保障労働省、ウランバートル市政府、および日本の厚生労働省の協力により、この記念碑が設立されました。記念碑の壁には、次のような銘板が掲げられています:
「1945年から1947年にかけて、この地で亡くなり、故郷に帰ることを夢見た日本人の方々の記憶に捧げます。平和を祈り、この記念碑を建立しました。平成13年10月15日、日本国政府」
戦後の背景と捕虜の状況
1945年の第二次世界大戦終結後、モンゴルは急速な復興と発展のために大量の労働力を必要としていました。そこで、モンゴル政府はソビエト連邦に対し、労働力として日本人捕虜を受け入れることを依頼しました。その結果、6回の輸送により、1945年10月からモンゴルの地に12,318人の日本人捕虜が到着しました。
捕虜たちの管理を担当する特別な機関が設立され、その指導者には少将のB.ソソルバラムが任命されました。捕虜たちは以下の場所に配置され、様々な労働に従事しました:
- スフバートル:スフバートル市内の工場や農場
- ジャルガランの農場:農業関連の労働
- ウランバートル市内:いくつかの工場や農場
- ダンバダルジャ:この場所は病院として使用されました
捕虜の労働環境と職業
捕虜たちは皮革加工、フェルト製造、靴製造、石灰工場、マッチ工場、炭鉱、レンガ工場などで働かされました。具体的な配置場所と人数は次の通りです:
- 工場労働:ウランバートルの工業複合施設で700人
- 石灰工場:ショホイトン工場で90人
- マッチ工場:スフバートルのマッチ工場で200人
- その他の農場や鉱山:ナライハ炭鉱やその他の産業施設
捕虜たちの中には、運転手、機械工、漁師、農民、鉄道員、ジャーナリスト、会計士、教師、写真家などの専門職に就いていた者もいれば、特定の職業を持たない者も多く含まれていました。
捕虜の帰国と記念活動
1947年10月14日から28日の間に、10,705人の日本人捕虜が帰国しましたが、犯罪を犯し処罰された約50人の捕虜の中にはモンゴルに残された者もいました。これらの捕虜は後に1957年に中国経由で帰国しました。
公式記録によれば、1,613人の日本人捕虜がモンゴルで亡くなり、次の場所に埋葬されました:
- ダンバダルジャ
- フジルバラン
- アルタンブルグ
- ズンブルン
- スフバートル
- ズンハラ
- バルンハラ
- ウギヌール
1962年9月、初めて日本人がこれらの墓地を訪れ、敬意を表しました。1971年には、日本側から亡くなった捕虜の名前が記されたプレートを設置する提案があり、1982年にはダンバダルジャで亡くなった800人のうち、名前が確認された614人の墓にプレートが設置されました。
1991年、日本政府はモンゴル政府に対し、亡くなった捕虜の遺体を日本に返還するよう要請しました。これを受けて、1994年に日本から専門家がモンゴルに訪れ、フジルバランで遺体を収集し、火葬して日本に送りました。現在、遺体があった場所には亡くなった兵士の名前が書かれたプレートが残されており、2001年10月にはダンバダルジャに彼らの記念碑が建立されました。
この記念碑は、戦争の悲惨さと平和への願いを後世に伝える重要な記念施設となっています。
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